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エシカル人インサイト エシカルコラム vol.2

冷静と情熱の間で… 二つの顔でスポーツ文化の魅力を紡ぐ栗村修という存在

ある時は、NHK教育テレビの自転車番組の講師として、ある時は、スポーツ専門局の人気解説者
として。 そして、自転車ロードレース宇都宮ブリッツェンチームの監督としての顔も持ち、
スポーツの魅力を伝えるファンの視点と、スポーツ文化を担うプロの視点をあわせもち
これからの時代を語る際に無視できない自転車人クリリンこと栗村修氏にインサイトしてみたい。

片山右京さんも所属する宇都宮ブリッツェンを率いて活躍中


世界の一流を伝える解説者としての「熱」

『三つの真実に勝る、ひとつの綺麗な嘘を。』
クリエイティブを語る際に引用される、このフランソワ・ラブレーの言葉を耳にするたびに僕はスポーツ解説者としての栗村修の事をイメージしてしまう。
解説者・栗村修は妄想の天才だ。そして、綺麗な嘘で多くの人々を愉しませる天才だ。
たとえば、自転車ロードレースの中継は200名を越す選手がヘルメットとサングラスを着用し集団で画面に登場するものであり、初めて観た人は、見所どころか視点の置き場にも迷うものだと思う。選手のポジションや登場する順番が決まっているその他のスポーツと比較しても、選手の区別が付けづらいデメリットを持つ。
たとえば、その集団の中から若い選手が一瞬だけスピードを上げて、群れから飛び出した渡り鳥のように先頭をひとり走り続けることがある。なぜ飛び出したのかは、本人が語らない限り誰にも理由はわからないのがスポーツ中継という物の本質だとも言えるだろう。
ところが、彼の解説を通すと愛情に満ちた妄想で説明がなされる。
「おかぁちゃん観てる!と言う感じのアピールでしょうね。」という具合に。
その妄想は、外れているのかもしれない。しかし、その後に続くプロの世界の厳しさの話やプロとしてアピールをすることの大切さの話を含めて聴いていると、僕たち視聴者も集団にしか見えなかった画面が、選手ひとりひとりの個性でコラージュされていることに気付かされるのである。
たとえば、ヨーロッパで自転車文化がどれほど根付いているかを説明する際に、様々な方法が考えられる。データで語る、映像でみせる、著名な偉人の言葉を紐解く・・・。
解説者・栗村修の場合、ベルギーで婦人会帰りのご婦人達が横風を受けながらママチャリで先頭交代をしつつ、プロ選手であった彼を軽く追い越していった経験を面白おかしく語ることで、興味を持っていなかった層に対しても判りやすく伝えたりしている。
もちろん、先頭交代がなぜ有効なのか?横風を受けるとどうなるのか?ご婦人達にまでなぜ自転車文化が浸透しているのか?など、この話をきっかけに文化論は無尽蔵に広げられていく。
もし書類で伝えるなら、そのエピソードはデータで伝えることより弱いかもしれない。しかし、彼がその話をした後は必ずTwitterが大いに盛り上がることからしても、人の心に響くと言う意味では、正しい方法を選んでいると心から思う。
自転車ロードレースファンとしての視点、選手としての経験に基づく視点、そして自転車文化を日本に拡げる夢を持つ人の視点。その裏に感じる愛情。
もっと単純に言うなら、ビートたけしが出てきてお笑いが文化になったあの頃や古館伊知郎が出てきてプロレスにもF1にも熱中したあの頃、松木の解説に笑い転げながらサッカー日本代表を応援するあの感覚と同じ「熱」を感じるのだ。だからこそ栗村修はクリリンという愛称で親しまれているのだと思う。


日本の未来を見つめる監督としての「静」

 

フランスのジュニアカテゴリーを走った最初の日本人となる

26歳の時にはポーランドのプロチーム、ムロズへ
『静かに燃える青き炎』
宇都宮ブリッツェン監督としての栗村修と話すとその静かな熱意に驚かされるだろう。
それは、燃え上がる赤い炎のような情熱で解説する解説者の顔とも違うものだ。
17歳の時に、フランスの自転車連盟に、日本人であること、フランスのレースで走りたいことを片言の手紙で伝えた頃、そして連盟から紹介されたチームへ単身乗り込んだ頃、彼のイメージは間違いなく情熱の赤い炎そのものだと思う。
実際、17歳の栗村少年の挑戦は、ビデオテープが擦り切れるほど観ていた世界最高峰の自転車ロードレース「ツール・ド・フランス」を通して知った知識だけを武器に、フランス語も出来ない状態からのスタートであり、それは若さと情熱なくして出来ないことだったように思う。しかも、情熱だけではなく、無謀さの影すら見えるような、その赤い炎はゆらゆらと、ちらちらと、明滅を繰り返す危ういものであったようにさえ感じてしまう。
まだ異国のチームに参加して間もない頃、その日の走行コースに含まれる山岳モン・バントゥに関してチームのコーチが説明をしていた際、彼は片言とジェスチャーで
「ツール・ド・フランスでジャン・フランソワ・ベルナール※が勝った山だね」と言う指摘をし、コーチとチームメイトを大いに驚かしたという。持っている知識を活かす姿勢にも、言葉は拙くてもコミュニケートする姿勢にも、そして、極東の小国・日本人でも自転車レースを知っている事実にも、本場欧州のコーチ達は驚かされたに違いない。そして同時に、彼のもちまえの愛嬌に微笑まされたに違いない。
当時の経験について彼は語る。
「フランスのチームは地域密着型でして、選手はほとんど地元に住んでいる状態でした。フランスでレースを始めたっていうのも、今の活動の根源になっているのかもしれません。」
渡仏から約二十年を経た今、数々のチームで選手として過ごし、そして、コーチ、マネージャーとしてのキャリアを積み上げてきた監督・栗村修は多忙である。
宇都宮ブリッツェンというチームの魅力は、レースに参加し成績を残すと言うプロスポーツチームの命題に加え、地域にスポーツ文化を広げ、そして自転車の魅力を引き上げる場の創造までをも担いつつある点だ。そしてプロチームとしての収益性にこだわる点も他と一線を画す特性だと思う。
語弊を承知で言うなら、自転車ロードレースはまだまだマイナーである。収益にこだわればこだわるほど、収益に結び付けるには遠い道のりも見えてくるだろうし、大きなプレッシャーが跳ね返ってくることだろう。栗村修の魅力である愛嬌は、監督で無ければ想像もつかないほどの大きなプレッシャーを越えてにじみ出て来ているのではないだろうか?
燃え上がる赤い炎は、さまざまなプレッシャーとその先に広がる夢という圧力を経て、青い炎へとヒートアップしているのではないだろうか?
だからこそ、僕たちスポーツファンを熱狂させるパワーが生まれてくるのだと思う。
期待をこめて・・・。


※ジャンフランソワ・ベルナール(Jean-Francois Bernard、1962年5月2日- )は、フランス、ニエーヴル県・リュズィ出身の元自転車競技(ロードレース)選手。1987年 モン・ヴァントゥへ向かう山岳地点で、自転車を変えて走るという作戦を実らせ区間優勝。さらに同ステージ終了後総合首位に立ち、マイヨ・ジョーヌを奪取した。


text by Kaoru Eshii